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ありがとうございます。(2005〜06年に書いたものを抜粋して掲載しています。)
本田宗一郎さん〔本田技研工業創業者)ありがとうございます!
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世界のオートバイレースで連戦連勝。事実上、世界のオートバイ・メーカーのト
ップに登り詰めたホンダは、創業わずか20年未満で、今度は四輪車に挑戦。1962
年ホンダS360、500発表、1964年1月S500、3月S600をそれぞれ発売。これだ
けでも驚くべきことなのに、さらに同年の夏からF1グランプリに参戦していま
す。たった2年未満の内に、、。
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1962年、中学3年生だった私は、高校受験勉強もそこそこに、東京・晴海で開催
された自動車ショーを見に行きました。そこに眩いばかりのスポーツカー、S360
と500が展示されていました。透明のカバーで被われたヘッドライト、まるで芸術
作品のようなエンジン・ルーム、、。その他のどのクルマとも違う、異次元の美
しさにすっかり興奮したことを、昨日のことのように思い出します。
そして、この時、私は「カー・デザイナー」という志望が芽生え、同時にホンダ
の創業者であり社長だった本田宗一郎氏という人物に興味を持ち、傾倒して行き
ました。
しかし、発表になったスポーツカーはなかなか発売にされません。まだかまだか
と待ち望み、何時しか一日の目標はホンダのSについての情報を入手することに
なっていました。朝起きては新聞にその情報がないか読みあさり、本屋に行って
は自動車雑誌の立ち読みのはしご。ついには、学校をさぼって、約5km先にあっ
た荒川〔河川敷内)テストコースに潜入(と言っても土手からの写真撮影)、和
光市にあった朝霞の研究所の周辺を理由もなく自転車で行ったり来たりするなど、
ほとんどホンダストーカー的高校生でした。
そして、翌々年の1964年1月、ついにS500が発売され、3ヶ月後の3月にはS600
にモデルチェンジされてましたが、私の次の関心は「F1への参戦」でした。
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「F1」、それは当時の日本の自動車メーカーのレベルから見たら考えられない、
無謀とさえ映る挑戦でした。ホンダらしいと言えばホンダらしい、ホンダにしか
出来ない、と言えばその通り。とにかく同年に東京オリンピックが開催され、高
度経済成長が始まった日本に「不可能はない」という雰囲気を象徴するような出
来事でした。そして、それは同時に血気盛んな私の青春時代に起こったクライマ
ックス的ニュースでもあった訳です。
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そして、ついにその時がやって来ました。当時のF1の排気量はたったの1,500cc
です。ターボやスーパーチャージャーは認められません。つまり、あくまでNA
(自然吸排気)が前提です。これに、何とホンダは200馬力のV12気筒を用意して
来ました。提携先だったロータスとの関係が破談となり、シャーシーからボディ
ーまで、全て自前の参戦です。四輪メーカーでない企業として、本当に神業的な
偉業としか言いようがありません。しかも、エンジンのマウントは「横置き」と
いう常識破り搭載方法。世界のマスコミが興奮しました。
初戦の夏のドイツ・グランプリ、30万人の観衆を集め、ホンダF1(271)は注目の
中、出走。初戦優勝の期待もありましたが、その夢は翌年の1965年、メキシコ・
グランプリ(参戦僅か1年余り)で達成されています。
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結局、こうしたことがきっかけとなり、カーデザイナー志望→工業デザイン学科
入学というコースを歩み(最終的にホンダ入社は果たせませんでしたが)人生の
一番熱い時期を本田宗一郎から大きな影響を受けて過ごしました。最後まで氏に
お会いする機会は無かったものの、人生の途中で、その時とは別の感慨を持つよ
うになりました。
それは、自分は本田宗一郎氏ほど、人生を熱く駆け抜けているだろうか、という
ことです。一生懸命、猛烈、熱烈、猪突猛進、無我夢中、そして無謀なる挑戦。
一度しかない人生を見事に、やり残したことのないように駆け抜けること、これ
がいつしか自分の目標になりました。私は青春時代、このことを本田宗一郎氏か
ら教わったのだ、と思うようになりました。
そして今も、一歩でも「本田宗一郎」氏に近づくことが私の人生の目標です。



豊口  協先生  ありがとうございます。
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ようやく私の信念というか目標とした小メーカーのデザイン実積が少しづつ出来て来て、
徐々に認知されるようになります。80年代半ば頃です。と言っても、今日のようにメ
ディアが多い訳ではないので、私達の発表の場は極々限られています。それと比較する
と、今は夢のような環境にあると言えます。チョボチョボと専門雑誌や新聞で取り上げ
られ、また原稿の依頼などもいただくようになりました。「これはラッキー!自分の日
頃の考え方を述べる絶好のチャンス」と意気込みました。
しかし、いざ書こうとすると、これがなかなか筆が進みません。進まないどころか、求
められた原稿用紙の文量がまるでエベレストの高さのように圧迫感を感じ、せいぜい4
百字原稿用紙一枚がやっと、という有様です。どうしたことなんでしょう。日頃の理想
論や現状のデザイン批評、愚痴や文句を山のように喋っていたのに、いざ、それを文章
にしようとすると全く書けないでお手上げ状態の自分。締め切りは迫り、そのことが気
になって眠れない日々が続く有様でした。ここで初めて自分のデザインに対する見解は
論理性がないという単純なことを発見しました訳です。ナサケナイ、、。
で、ようやく少しは読める文章が某誌に掲載されました。書いている時は「やった!」
と満足していたのに、印刷されたものを読むとこれが「恥ずかしい」の一言。この時は
何ともう30才代半ばです。学生じゃあるまいし、、、、、、。と滅入った日々を過ご
していたら、恩師の豊口協先生からおハガキが届きました。母校の学長に就任されて間
もない頃です。そこには「君にしては少し過激な文章だったけど、良かったと思います
(学長室にて)」と記されていました。砂漠の中で、突然オアシスを発見したような心
境でした。
と、これから(本文)が書きづらい、、。(笑)
思い起こせば、私は大学時代の成績が悪く、おまけに就職も一人だけ決まっていなかっ
た!こともあり、「三原を留年させよ」という見解があったようです。つまり、卒業さ
せないで、「もう一年やらせよ」という屈辱的な結論寸前のところ、豊口先生の救いが
あり、事無きを得ました。実はこれだけでなく、たしか2年生の時も基礎実習が弱かっ
たので、最後の面接で「君は勉強してるのか!」見たいな雰囲気になって、そこでも豊
口先生の助け舟で事無きを得ました。本当に冷や汗もので、以来、先生には申し訳ない
気持ちでいただけに、そのおハガキはとても嬉しく、自信復活の道標となりました。
あれから20年以上も経ちました。私の活動は軌道にのり、また違った活動もはじめ、
多くの人と接するようになりました。そうした活動をする上において何かあると「それ
は豊口さんに相談しなさい」とか、「まとめるには豊口先生が絶対良い」という似たよ
うな意見に何度も遭遇し、改めて豊口先生の人望の高さに敬服させられました。
豊口先生の人生を見ると、とても普通の人では乗り越えられないような多難なお仕事で、
あの柔和なお顔やお人柄からはとても伺い知れないほどのものがあったことに推察して
います。とかくとんがった個性の多い人達が集まっている職種であり、また、教育の機
関においても、長い間助教授、教授、そして学長と歴任され、それも長期間お務めにな
っていることは本当に驚異的だと思います。
お招きいただいた新潟県燕市物産デザインコンペの審査会場においても、審査委員長と
して実に見事に全体の流れをリードし、審査委員の心にまで踏み込み、さりげなく、時
に強く、しかし優しくという絶妙の采配はウットリするほどお見事です。今年で4年連
続同席させていただきましたが、そこには人に信頼され、尊敬される、本当に自慢でき
る恩師の姿がありました。
ご健康に注意され、少しでも長くご活躍されることをお祈りしています。
そして、落第生の私を救ってくれた豊口先生の「えこひいき」に一生頭が上がりません。



佐藤和子さん(デザインジャーナリスト)  ありがとうございます。

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「日本の工業デザイナーって、普通どんな夢持ってるの?」、「そうですね、フェラーリ
乗って、ヨットとか買うことじゃないですか」。「なによそれ、そんなんじゃダメだわね
」「、、、」。憧れだった佐藤和子さんに最初にお会いした時の会話です。バブル経済が
崩壊したことをまだ実感出来ないでいた90年代前半のことです。
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「分からない」、「解らない」「ワカラナイ!」。私の青春時代は分からないことだらけ
でした。特にデザインの現代史の情報をどのように入手し、それを理解するか、という主
題です。これは社会を理解し、デザインを理解する上で最も重要だと思ったのです。
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そもそも学校の教育は入学試験に重きが置かれ過ぎているので、大切な学科は数学とか英
語、理科とかになりますが、一番大切なのは「社会」ではないでしょうか。そうではあり
ませんか?教育の基本は自分を理解することと、社会を理解することのバランスの上に成
り立っているのであって、これがなくて数学も英語もありません。デザイナーにはここの
認識が足らないのです。(話が飛びすぎかな?)
幸い、母校(東京造形大学)には嶋田厚先生という立派な講師から社会学を教えていただ
いて、益々その観を強めた訳ですが、60年代後半はデザイン界には早くも効率、経済優
先ま思想が蔓延していて、デザインの歴史なんぞ、どこかへぶっ飛んでしまっていました。
この事に加えて、「工芸ニュース」が無くなったことを筆頭に、次々にデザイン専門誌が
創刊、休刊を繰り返されために、一貫したデザイン史をくくれるだけの基盤がなかった訳
です。
こうなると期待が高まるのは「個人」です。組織も崩壊、メディアも消滅、となると、残
るのは見識を持った「個人」の持つ情報、見解です。国敗れて山河あり、たとえ情勢がそ
うであっても、必ず「人」に大切なものが残されているのです。このことを忘れてはなり
ません。
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このことで何と言っても最高のお礼がしたいのは佐藤和子さんなのです。佐藤さんは60
年代前半にイタリアに拠点を持って、数多くの第一線で活躍していた建築家やデザイナー
と交流があったために、その情報量と理解力は抜群の存在でした。数多くのメディアに寄
稿し、イタリアで起こっている激しく変化するデザイン情報を日本に送り続けてくれたの
です。本当に意あるデザイナーにどれだけ貢献したか分かりません。中でも難解だった一
連の(通称)ポストモダンのデザイン運動を詳細に分析して報じてくれた初期のAXIS
誌掲載の寄稿は宝珠のような輝きがあり、おそらく世界のデザイン誌の中でもっとも明快
にアルキミアからメンフィスの流れを説明した文章だったろうと思います。
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そして、冒頭の話に戻りますが、こうした佐藤さんの心意気を知るにつけ、日本のデザイ
ナーのノンポリ(死語?)が浮き彫りになります。理想も何もなく、お金を稼いで、良い
バイクを買った→いいクルマを買った→ヨット買ったとエスカレートすることに準じるこ
とだけ、興味があるのは、、。後はこれに大学の先生にでもなって名誉を手に入れて万万
歳、こんなコースじゃないでしょうか。儲かってないヤツをバカにしたり、デザインの理
想を追及している連中をコケにしたりする話を何度聞かされたことか、、。こうしたデザ
イナーの風潮が長年、数だけ多くて幼稚なデザインを山のように生んだ温床となって来た
のです。
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しかし、いよいよここ数年、日本のプロダクトデザインは動き出しました。デザインブー
ムと一言で言ってしまいますが、これは今までと全く違った動きです。このムーブメント
に、佐藤さんは大きく貢献していると思います。30年以上に渡る佐藤さんの地道な活動
が私達の血となり肉となって、今爆発しているのです。私は心から佐藤和子さんに最高殊
勲賞を捧げたいのです。

※これを書いて12年が経過。益々お元気で、佐藤さんの存在感が高まるばかりです。本
当に日本においてもイタリアにおいても特別な存在だと思います。



川上元美さん(プロダクトデザイナー)  ありがとうございます。
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「川上元美」。まず名前が凄いなぁ。よく川上から川下へ、とか言いますが、川上、つま
り源流に「美」の元、原点があるって解釈出来るお名前、まるで、ご両親が今日の川上さ
んの活躍を予知していたかのような洞察力を感じさせ(と言うと、少し大袈裟か)、私は
学生時代から「川上元美」という名前を自然と覚えさせられていました。
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戦後における産業の構造不況問題で、意外と知られていない話として、71年〜73年のドル
ショックとオイルショックを挟んだ劇的な情況の変化の実話が上げられます。それまでは、
天井知らずの好況にあったのに、その二つのショックを境に、一気に不況に転げ落ち、現
在に至っている産業です。陶磁器や漆器などの、いわゆる伝統工芸的な(あるいは手作り)
産業などは皆そうなのです。「作っても作っても売れた。なのに1974年からはサッパリ売
れなくなった。」地方の工業団地などに行くと必ず聞かされる話です。
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これは家具産業も全く同じで、ここを境に見事に天国と地獄を味わっています。が、家具
産業が悲惨だったのは他の業界と違って、産業の高度化へ向かう予知が高く、広かったこ
とが上げられます。(何のことか分からない?)簡単に言えば、三ちゃん工業的な体質を
淘汰出来ないまま不況に入ったために「図面さえ描けない」企業が圧倒的に多く残したま
まだった、ということです。信じられませんが、この体質は今も変わりません。
昔、家具メーカーの開発の人と話をすると「デザイナーのくせに図面が描けない人が多い」
という悪口が多かったと記憶します。何のことはない、彼らは専門なのに、その専門の図
面が描けなかった訳です。
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川上元美さんが芸大の修士過程を修了し、イタリアに渡った後、「川上デザインルーム」
を設立したのは1971年でした。家具業界がダブルパンチを受け始めた、その最初の年に日
本で仕事を開始しているのです。「詳細図面までカッチリ書き上げる」川上流デザインが
生れた背景として、こうした家具業界の事情が左右したのかどうかは、ご本人に確認した
ことがないので分かりません。しかし、結果的にその川上流の家具デザインは日本の家具
業界に計りしれない功績を残しながら突き進み、約20年近く続いた暗黒時代に貴重な役割
を果たしたのです。
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そんなことで、私は社会人としてスタートする時から「雲の上の人」だった川上さんと初
めてお話が出来たのは15年ほど前、松村勝男さんが亡くなられ、松屋銀座における回顧展
のオープニングだったと思います。時同じくして、大橋晃朗が急逝されたばかりで、氏が
私の母校である東京造形大の教授だったことを知って、そのことを質問して来られました。
「あれ以上、真面目に出来ないほど真面目だったねぇ」。しかし、そのことはソックリそ
のまま、川上元美さんご自身に(当て嵌まり過ぎるほど)当て嵌まる言葉だったので調子
抜けしました。
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このように、その世界や業界を支えているものは行政でも団体でもなく、個人である場合
が多く見受けられますが、川上さんと「家具」業界との関係は有形、無形において効力を
発揮して来たと振り返ることが出来ます。そこには「能力」以外に「人格」のようなもの
を必要とすることは言う間でもありません。また、それに加えて、誰もを受け入れる「人
柄」が備わっている訳ですから、私達は川上元美さんから受けた恩恵はとても言葉では言
い尽くせないものがあるのではないでしょうか。
また、仮に、私が川上さんより30才ほど違っていたら、フリーランスのプロダクトデザイ
ナーとして川上さんは格好の道標(または頂)としたかもしれません。川上さんからどの
ようなことを学び、川上さんの成しえなかったことは何かを考えることこそ、新しい家具
デザイナーを目指す若者のベンチマークとしてこの上ない材料と思えてなりません。



松永  真さん(グラフィックデザイナー)  ありがとうございます。

「CI」ってさ、結局「マーク」でしょ?簡単じゃん、、。
良く聞かれる会話ですね。しかし、それに対して「そうだ」と言う人は「CI」のことも
「デザイン」のことについても良く理解していない人だと思います。
名刺などの小さい印刷物の場合、たった数ミリの小さい世界に神経を磨り減らすようにし
て考えられた「形」が持つ意味とは何でしょう。私達の感情を揺さぶり、何かをイメージ
させ、そして一定の方向に理性を向かわせるもの。それを一つの「形」の中に閉じ込める
作業(デザイン)が簡単な訳がありません。しかも、何度見ても、何時見ても新鮮に見え、
しかも時に表情が違ってさえ映り、企業の心の真ん中に居座ることの出来るものなのです。
こんなスゴイことがあるでしょうか。
「大変な仕事」と理解しているから、この世界には大掛かりな仕組みが出来上がっていま
す。いくら高名なデザイナーでも、この中に押し潰されてしまいそう、、。そこを押し返
し数々の「CI」を手掛け、しかも日本の代表的なデザイン事例を数多く残している松永
さんの力量には本当に敬服してしまいます。
私が「松永真」という名前が脳裏に焼き付いたのは学生時代に目にした「日宣美」特選作
品でした。それは、あの当時のトレンドや既にあるような美しさとは大きくかけ離れた大
変に独創的なデザインでした。デザインというより「絵」でした。ものすごく太い筆で「
えいっ!や!」と描いたイラストです。筆というか、「タワシ」じゃないかと思うほど荒
々しいタッチです。
当時は「作家グラフイックデザイナー」全盛で、一人一人が独自の作風とか作画手法を競
い合い、それを堅持することがスターデザイナーのデザインでした。だから、この新しい
画風のイラストを発掘した松永さんは、次の年も「この手」で出して来るだろうと想像し
てましたが、それは意外にもまったく違った作風でした。、、、で、しばらく私は松永さ
んの存在を薄いものにしてしまっていた訳です。しかし、後で考えると、このことが松永
真の真骨頂(駄洒落でない)だとは、全く凡人の後々知るところとなります。
それから40年近く、松永デザインは世の中を席巻し続けることになります。ほとんど、あ
らゆる業種の企業のCIから商品パッケージデザインまで、実に多種多様なものに渡って
います。スーパーストアに行って売り場を一周しただけで「これ松永デザイン」、「これ
も、」、「あれも、」となります。考えて見れば、ここに「作家性」などの要素を差し挟
めるはずがありません。答えは実に簡単なものですが、月日が経たないと、その本当の実
積は分からないものです。
どうして、そんなことが出来るのか。また、続けられるのか、、。私は考えました。「洞
察力」ではないかと!(青臭い見解かも知れませんが、、。)
一つ一つの問題と正面から向かい合い、対峙する姿勢ではなく、「無心に解き明かそうと
するような心」がないと、これだけの仕事をやり続けることは困難ではないかと考えるの
です。
ま、これ以上の多言は禁物ですし、野暮な解説になるので止めておきますが、それには、
もう一つ、松永さんのお人柄が深く関係しているように思えてなりません。
最初にお会いしたのは1989年のGマーク審査会場だったと記憶します。恐れ多くも審査
員として同席した訳ですが、その時の松永さんの態度は一言で言うと「自然」、です。威
張らない、虚勢を張らない、高飛車でない。実に普通に人に接し、モノと向かい合う。こ
れが松永さんの姿でした。「俺はお前より上であり」、「お前は俺より下なのだ」という
視線や態度をプンプンさせるヤツとは大違いです。そういう類いのデザイナーが「俺は松
永を超えた!」とか言っているのを聞いたことがありますが、笑っちゃう話でした。
松永さんには「グラフィックデザイナーの巨匠であり続けてほしい」です。また、その牙
城を簡単に譲り渡さないとは思います。



父(三原信吉)

「もう直ぐ59才を向かえる自分が、父の59才の時を振り返る」
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1983年に亡くなった父は1899年生まれなので生きていれば106才です。母はお陰様で健在
で91才。そして、私は7月2日には59才になります。この59才という年齢は父が私達家
族を引き連れて福島の片田舎から上京した年齢です。10才の私に、12才の兄、そして腹
違いの15才の姉の5人家族で、、。
.
私は今頃になって父のことや母のことが分かるようになりました。
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こんな風に昔のことを振り返ることを私の兄弟(姉が3人兄1人)はしません。しかし、
自分自身が生まれる前のことまで遡ると、紛れもなく私の家族の歴史の原点が見えるよう
な気がするのです。
○「父の志し」
まず、祖父は服部時計の創業者と親しく、明治時代、東北において文明のシンボルのよう
な存在だった「時計」を独占販売、財を成した人だったようです。その二男だった父は写
真屋の丁稚から日本画の修業を経て第一次世界大戦で兵役になった後、独学で郷里の仙台
を捨てて北海道帝国大学の機械科に学びます。ようやく念願叶って、飛行機のエンジン設
計の道が開けるも、30才を越しての卒業と、1930年代前半の世界恐慌の真っ只中でしたが
名古屋の会社に無事に就職し、当時日本において最高出力の星形飛行機エンジンを設計、
直後会社からの留学と称して単身フランスに2年間滞在して欧州における最先端の機械技
術を学びます。(と、ここまでの自慢話は幼い時に何度も父から聞かされました。)
○「戦争」
時はまさに急激に戦争へと向かい、父の技術は国家的に重要なものとなり、脚光を浴びる
ことになります。資本家にスカウトされて新会社を銀座に設立、エンジニアでありながら
副社長の地位に就くのです。住いは当時の新興住宅地だった吉祥寺でしたが、今風に言え
ばセレブそのもので、随分と豊かな生活ぶりだったようです。
○「敗戦から疎開生活」
が、父の先妻が三女を出産して死去、14才の娘を育てていた母と再婚します。これが何と
終戦2年前の1943年のことです。父や家族に暗い影が忍び寄るはじまりです。
終戦だったら、まだ救われていたかもしれません。敗戦だったことが我が家の情況を一変
させてしまいました。当時、父はすでに47才でした。進駐軍の指令により、会社は操業を
停止、再興も業種として禁止されてしまったので、ただのオジサンに転落してしまったの
てす。敗戦の8ヶ月前に兄が生まれ、疎開先(現、福島県三春町)で2年後に私が生れま
した。そう、私は父が49才の時に生まれた異母姉弟の末っ子だったのです。
○「母の予期せぬ苦労」
追い打ちをかけるように超インフレと食料難が家族を襲いました。家族を襲ったのではな
く正確には「母」を襲った、が正しいかったと思います。父はとてもハンサムで金持ち、幼
子が3人もいましたが、漁師の夫と死に別れて女手一人で娘を育てていた母には、この上
ない良縁だったに違いありません。なのに、たった2年でそれが破綻してしまい、しかも
日本は焼け野原。高価な財産や持ち物を売っても売っても、手に入れられる食糧は一握り
の「お米」。ついには遠くの町(小野町という所)まで子供を背負って買出しに行ったと
聞きました。片道約25キロ、山あり谷ありの決して平たんな道ではありません。勿論、良
くてジャリ道です。そこをどんな気持ちで母は歩いたのかと思うと胸がつまります、、。
○「母の家出と、、」
結局、父は4年後、隣町に新設された高等学校の教師になって一息つきますが、私はこの
間にもう一つの事件が隠されていたと思えてならない記憶があります。それは母が3才だ
った私だけを連れて家出をし、宇都宮の友人宅に数日だけ身を寄せていたのです。私鉄(
東武と思われる)電車が見える家で、私はたった3才でありながら、その時の「暗い」母
の姿と長時間に渡って友人夫婦と話し合っている光景を今でも記憶しています。
.
その直後、母の連れ子だった姉は18才にして単身、東京へ向かっています。
○「福島から上京、そして、、」
父は高校の教師になったものの、直に定年となり、再び失業、2年間「釣り」ばかりして
いました。そして、私が丁度10才の時に縁あって東京のカメラ・メーカーに就職、看護婦
になっていた姉と、親戚に身を寄せていた二番目の姉を残して家族5人で上京しました。
それが冒頭に書いたことですが、父が59才の時でした。それから父は75才まで16年間同じ
会社で働きました。あの年齢から兄と私を大学まで出す労力と気力は並大抵では出来ない
と、今頃、「父は随分辛抱したんだなぁ」と思います。
○「父の思い出、飛行機」
父の思い出の中で忘れられないことが三つあります。
一つは飛行機のエンジニアという仕事を続けられなかった「無念」さが、今、本当に理解
出来ます。特に私が小学校に入る頃、いわゆる朝鮮戦争があり、福島上空を米軍のジェッ
ト戦闘機の編隊が何度も飛来しました。その音が聞こえると下駄も吹っ飛ばして庭に出て
は双眼鏡で形振り構わず観察していた姿です。終戦後、失業している際に何度も福島まで
某自動車メーカーの人が就職の誘いに来ても父は応じなかったそうで、飛行機のエンジニ
アとしてのプライドと想いの深さが偲ばれるエピソードかもしれません。
○「サイクリング」
もう一つは、私が12才の小学6年生の時に板橋から狭山湖までサイクリングに連れて行っ
てくれたことです。私は自転車に乗れるようになったのが、とても遅く小学5年生でした
が、私は隣の同級生にもらった子供用自転車、父は昔の荷台の大きな普通の自転車でした。
道は石ころだらけの凸凹道。片道20キロほどだったと思います。帰路、最後の長い坂道に
差し掛かり、私が先に登りきって後ろを見ると父がいません。「アレ?」と思って迎えに
行って見ると下を向いて必死にペダルを漕いでいる父の姿がありました。私にとっては初
めて「父の年齢」を思い知らされた最初の出来事でした。
○「孫と、、」
父は非常に気難しく、母の言うことや姉や兄の忠告などには耳を貸しませんでした。その
ツケが一番可愛がられた私に廻って来て、老いた父に忠告したり、土壇場の世話係は私の
役目でした。その大役は父が亡くなる半年前から始まりました。それは、コタツに手を入
れたままの姿に疑問を持ったことからです。手を出させると、そこには3センチほど伸び
たツメがあったのです。その後のことは想像にお任せしますが、そんな中でも2才になっ
たばかりの長男を連れて行くと何をされてもニコニコしていて、あの近所の子供を怒鳴り
まくっていた父の姿はどこにもありませんでした。人間というものは、これほど「孫」が
可愛いのかと、父から教わった気がします。
−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
こうして振り返ると、59才の時の父の決断と辛抱から息子として学ぶことがとても多いで
す。このことを理解出来たのはここ数年です。情けないものです。また、父が成し遂げら
れなかった到達点まで努力し続けることが出来ている分だけ、自分は幸せなのかもしれな
いと思えるようになりました。
もう直ぐ59才を向かえるにあたって、そんな風に昔の父を想うのです、、。



(偉大だった)母 

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昨夕(6月20日)母が逝きました。享年92才でした。
「父」の箇所でも書きましたが、母から見たら父以上に波乱万丈の人生でした。
本家は「千島」と本人は言ってましたが、これは確認しようがありません。ただ、宮城県
気仙沼で片親の母に育てられるも、その母も他界、唯一人の姉弟である「ゆきお」も結核
により十代半ばで亡くします。
その後、漁師と結婚し、長女を出産しますが、その夫も海難事故で他界、アッと言う間に
未亡人となり母子家庭になってしまうのです。そして親子は上京し、母は割烹店で働き、
娘を高等小学生にまで育て上げた時に「日本一の男」として父を紹介され、互いに再婚し
、兄の伸太郎と私が生まれるのです。この間の想像を絶する母の苦労は「父」の時に書い
た通りです。
それからずぅうと、私達家族は再婚同士の両親と、三色の姉弟に構成され、その要であり
続けたのが母でした。三カ国語をあやつるインテリのエンジニアだった父と、ほとんど無
学に等しい母とは、ある一面「水と油」でした。正確無比な父に対して、いささかアバウ
トな母は、ある部分では父母の立場を逆転している感もあり、孤高な父に対し、母は住む
場所ごとに人望があり、そうした面でもキャラクターは正反対でした。
その事を一番思い知らされたのは福島から東京に引っ越しが決まり、いよいよ家族で汽車
に乗ろうと駅(磐越東線・船引)へ向かうと、何と改札口は黒山の人だかりでした。それ
は、ほとんど全員、母を見送るために集まった人達で、列車が到着すると田舎駅のプラッ
トホームは本当に人で溢れ返りました。その町に移り住んで僅か6年、閉鎖的で地元以外
を他所者扱いにする風土の中でのことです。母の凄さを痛烈に味わった出来事でした。
.
家族を思う気持ちが誰より強く、それは最後の最後まで貫き通されたと思います。自分か
ら享楽にはしったり、家族の「幸福」と無縁な行為に勤しむ姿を見た記憶がありません。
生きること自体が家族のためであり、母にとって家族は人生そのものだったのです。特に
私は(思いがけず)母に何度も窮地を救われました。それは何とも情けないことに50才
を過ぎても続きました。これは理屈ではなく、結果的にそうでした。そして、その関係に
おいて、とても不思議なことが起こりました。
それは私がいよいよ絶体絶命に状態に追い込まれた時(そのことを母は知りませんでした
が)があり、私はまさに四面楚歌でした。楽天家の私が初めて危機感をいだいた時でもあ
った、その時にその事は起こったのです。決して他言出来ることではありません。しかし
、そのことは決して神しか知りえない「母の執念」とさえ思える出来事でした。このこと
は他の姉弟も全く気付かずに現在に至っているはずです。
.
母については、そのこと抜きに子供として一番親孝行出来たし、他の姉弟には出来ないこ
とを何倍も母にはして上げられたと思っています。心残りが全くないかと言えば、それは
嘘になります。しかし、母は十分に天寿を全うし、自分自身も母に出来る限りのことはや
り尽したと考えることが出来ます。両方の面で思い残すことはありません。体調不良から
入院させて4日後、苦しんだのは2時間だけ。ここに母の信念の全てが語り尽くされてい
ると思うのです。(本当に長い間、ありがとうございました。)



学生時代までの友
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昨日は中学時代のクラス会があったようで級友の大熊君から(会場から)電話があって、
なんと45年ぶりなのに、少し前まで一緒だったようなお互いの話しぶりでした。
そう言えば小さい時から「友達」には世話になりました。福島の小学時代は旅館屋の息子
だった優しい御代田信男君とか、電気屋の坪井君がいました。小学校に入る前から絵が好
きだったのに、どうしも田中君という男の子には勝てなくて、彼の描いた馬の絵とか、火
の用心のポスターを今も鮮明に覚えてます。
東京に引っ越して来てずうずう弁の田舎者に直ぐに仲良しになってくれた近所の塩野君、
金子君が優しかった。また、登校した最初の日に校門まで一緒に歩いて話しかけてくれた
野球のうまい菅俣君の美しい標準語は今も耳に焼き付いてます。校内には暴れん坊同士の
喧嘩とかイジメがあったけれど、私はこの小学校では抜群に絵がうまかったので、一目置
かれた存在で難を逃れていました。女の子ではとても可愛い山名みどりチャンという子が
いて、私の憧れでした。(こういう名前は一生忘れないものですね^^;)もう一人、メチャ
チャ頭が良く、すでに大人の雰囲気が漂っていた大森紀子さんが隣のクラスにいて、その
存在感に圧倒されたりしていました。 (その後、彼女とは中学のクラスメイトとなり、な
ぜか母親同士がその後、何十年とお付き合いする仲となり、つい最近まで互いに体調を崩
すまで続いてました。)
小学時代の終り頃、家の前に自衛隊に勤務する岩永さんという4人家族が越して来ました。
ここに和夫君という同学年の子がいて、頭も運動神経も良いので母は私と比較して和夫君
のことを目の前でよく褒めていました。これには初めて小さな自尊心が傷つけられ、この
記憶から自分の子供を「他の子供と比較する」ことは絶対しない原点となりました。
そして、中学では小学校から一緒だった酒井時彦君とか、内田喜男君、佐野君、冒頭で書
いた電話をくれた大熊英雄君が記憶に残っています。中でも酒井君は背が高く、足が速く
、絵もうまく、しかも今振り返るとデザインセンスにも長けていた存在でした。昨日、電
話で話したら個人タクシーを営んでいるそうです。彼が工業デザイナーになっていたら、
私は太刀打ちできなかったかもしれません。(人生、わかりませんネ)
中学時代は意外にも「絵」の興味が一番薄れた時期でした。特に図工の試験問題の答が間
違っていたり、教え方がまったく解らない職業家庭の先生には幻滅してました。一方で、
「社会」だけは抜群の成績を収め、東京都のテストの間違いを指摘して先生を驚かせたり
でしたが、小学校の時のように「絵」を描けば必ず「特選」入賞のようなことはなくなり
ました。けれど「社会の三原」は級友では有名でした。
それから、私は高校受験に失敗し近くの私立高校に入ります。しかし、結局、ここで親友
のような存在の級友とかは一人も出来ず、暗い高校生活をおくります。また、非常に目立
たない生徒だったと思います。とにかく、目標としていた高校に入学出来なかったコンプ
レックスを引きずった3年間でした。それでも山登りが好きな伊達正夫君や、何とスバル
サンバーで通学していた尾崎進君は今でも年賀状のやり取りがあります。
この暗さを大学に入っても続いていたと思いますが、最初に友達になってくれた石井直行
君とは兄弟のように4年間を過ごしました。川辺喬史君は卒業して渋谷に事務所を持った
時に重たいホワイトボードをプレゼントしてくれるためにわざわざ熊谷から手に下げて来
てくれました。6年前に急逝した千葉昇君はいつも褒めてくれて、私の劣等感を少しづつ
解いてくれました。学生時代、抜群の知識力で羅針盤のような存在だった鈴木一司君から
の影響なしに今日の自分はないです。卒業してからも約10年間、「デザイン活動」を一
緒に行動してくれたエネルギッシュで個性的だった望月一義君(5年前逝去)、包容力の
ある木村格君、フリーになって事務所を一緒に運営した渡辺哲宏君等にも本当にお世話に
なりました。第一期生の卒業生として、コネクションに薄かったので、何かにつけて級友
の仕事場を訪ねては情報を得たり、ネットワーク作りに役立てていたりしました。「お前
は他人の迷惑も省みず、よく平気でズカズカ来るもんだな」と、よく言われたものです。
この場を借りてお詫びしておきます。^^
学生時代の友人は利害関係になく、純粋なので長く関係が続くとか言われますが、その通
りだと思います。しかし、40年も時間が経つと「生き方」も様々で、昨年の暮れだった
か中学と高校時代の級友の名前を検索したことがありました。約80名ほどでしたが、該
当するヒット数はゼロでした。少なくともホームページを持ってる友は皆無です。昔の印
象から、とても信じられない結果でした。が、逆にこのことから自分の年齢の深さを実感
するのでした。


黒澤明監督

「芸術や文学が何のために存在するのか」、そんな問題に答えてくれたのが黒澤明さんで
した。(一面識もありませんが、私の人生に大きな影響を与えてくれた存在です。)
.
就職が決まったは良いけど、配属された職場の主任(建築家)と折り合いが悪く、早くも
暗い毎日を送っていた時(その彼のクルマで工事現場に向かう途中)うつろな私をハッと
させた場所が赤坂見附でした。信濃町方面から坂を下ると、それは劇的な臨場感をもって
姿を現しました。グラフィックデザイナーの田中一光さんが監修した外壁を持つ赤坂東急
ホテル。パステル調の太いピンクのストライプを携えた建築は見附のシチュエーションを
巧みに演出し、近代国家に脱皮し、その首都である東京の一角に相応しい素晴らしい景観
を提供していました。
そして、その横に大きな予告看板がありました。それも見事にデザインされていました。
「トラ!トラ!トラ!」!
「真珠湾攻撃」を主題とした日米合作映画。監督には黒澤明さんが選ばれていたのです。
もうすっかり黒澤ファンになっていた私は、暗い時間の中に、その衝撃的な2つのシーン
が飛び込んで来た「その時」を昨日の事のように記憶しています。1970年2月のことです。
.
とにかく「小説」というものを読むのが苦手で、私は高校を卒業するまで、まともに読み
切った小説は一つもありませんでした。(何ということだ!)
だから、せめて「映画」だけでも理解し、感動する自分でありたいと願い、大学の休講と
か休日は「映画を見ることに挑戦」する日々でした。彼女とかいなかったので、何時も何
時も一人で観ました。幸い、乗り換え駅の池袋には人生座という古い映画を上映してくれ
る映画館があり、そこで私は黒澤映画の2本立を観ることになったのです。「生きる」と
「羅生門」。
「生きる」はなるほど佳作でした。役人役の志村喬が好演していました。私は少しだけ映
画を理解出来るような気分になりました。
次に「羅生門」が上映されました。「羅生門」はベネチェア映画祭でグランプリに輝いた
傑作ということで、大いに期待して見始めましたが、結局は延々と原作者である芥川龍之
介の暗い人間観を描いた内容が続き、それを羅生門で雨宿りしながら語り聴くという場面
の中、突然、その豪雨が止んだ時から「黒澤映画」が始まりました。それは、おそらく数
分に過ぎなかったと思います。ウンザリするような場面が続いた後だけに、最後の残りの
部分に感銘を受けました。芸術や文学の役割とは、こういうものではないか。私は強い衝
撃を受けたのです。映画を観る、芸術を知る、文学とは、という糸口が見つかったような
心境でした。
そして、一連の黒澤映画は全て見終えての「トラ!トラ!トラ!」です。私の心は熱くな
らない訳がありません。その時の暗い闇に閃光がはしったような心境になりました。
.しかし、残念ながら紆余曲折あり、黒澤監督による「トラ!トラ!トラ!」は実現しませ
んでした。映画はすでに斜陽にあって、傷心の監督の想いはどのようなものであったのか
、、、。
これに代わる映画として「どですかでん」が完成しました。それまで、黒澤監督が「カラ
ー」について厳格だったために、これまでの作品は何と全てモノクロだった訳ですが、何
と、この作品が初の「カラー作品」でした。そして、特に冒頭のイントロなどにおいては
「カラー作品」であることを高らかに謳い上げる美しい画面を表現していて、一連の作品
の中では小さな部類ですが本当に見事な映画でした。
1965年の「赤ひげ」から5年も開いたにも関らず、それを感じさせない勢いがありました。
.
が、結局その後6作品が作られますが、私から見ると黒澤映画はこの「どですかでん」が
最後の作品のように思えます。黒澤明さん、60才の作品です。映画監督というのは本当
に体力が要るものだとつくづく思います。
.
他の日本の映画監督として市川崑、大島渚、伊丹十三、実相寺昭雄がいます。市川監督は
ある意味、黒澤のライバルだったかもしれません。絵の美しさは群を抜いています。それ
が1965年の「東京オリンピック」に表れていると思います。
大島渚はその反対で絵がからっきしダメです。しかし、情報化社会を先取りした映画のお
もしろさを立体的に作るのが長けていました。
実相寺の1970年制作の「無常」は永遠不滅の傑作です。
伊丹も非常にポイントを押えた器用な監督でした。また、話題作を作るのが上手でした。
が、大島もそうでしたが自分の女房をキャストに抜擢するのが好きになれませんでした。
これは黒澤が初期の映画で矢口陽子と知りあい、結婚するも一度もキャストとして起用し
たことがないのとは大違いです。確かに時代背景は違いますが、、。
.
こうして、私は社会人になった年に「どですかでん」と「無常」の二つの傑作を観たのを
最後に「映画少年」を卒業しました。そして「映画」から「人間」というものを考えるこ
とが出来るようになり、自分の「確信」を確かなものにしていったのです。その最初の巨
大な存在となったのが黒澤明さん(1910−1998)の映画でした。



永井一正さん(グラフィックデザイナー)ありがとうございます。
.
突然、我が家に永井一正さんが電話を掛けて来ました。「お手紙にあったポスタ
ー、差し上げますから、良かったら取りに来て下さい」!そうだった。私は日宣
美展で、あまりに永井さんの「成長の話(LIFE)」というポスターに感動し、熱
烈なラブレターを送っていたのでした。それにしても、わざわざ電話番号を調べ
て電話をかけて来てくれるなんて、想像もしませんでした。本当に驚いた。
私は次の日、大学の午前中の授業をさぼって銀座にある永井さんの勤務先である
大和ビル内にある日本デザインセンターを訪ねました。もう家を出る時から舞い
上がっていて、意外と小さい制作室で待っていただいた永井さんの顔も正視出来
ず、完全に上気して訳も分からなくなり、渡されたポスターを片手に、一気に階
段を駆け降りて地下までオーバーランしてしまったことだけ鮮明に記憶していま
す。もう顔は真っ赤。(東京造形大学の)デザイン科に入学して半年後の1966年秋
の出来事でした。
.
実は私はデザイン科に入学出来たのに、在校していた高校に美術という科目がな
く、本格的な受験勉強は3年生の時に行った某美大の夏季講習だけでした。だか
ら、一浪や二浪が多かったクラスメイトに「遅れ」をとっていたことはハッキリ
していました。そんなことより、まず、この世界がどのようになっていて、どの
ような価値観があり、どんな人が活躍しているのか皆目分かっていませんでした。
だから、兎に角皆に追いつこうと、必死だった訳です。
そんな中で、志望だったカーデザインの括りであるインダストリアルデザインな
どより、当時、有名な東京オリンピックのポスター〔亀倉雄策デザイン)にはじ
まり、横尾忠則が時代の寵児になったことが象徴されるように、とにかくグラフ
ィックデザインの活発さが飛び抜けていることが分かりました。その中で、無知
な私の心を大きく揺さぶったのが、定規とコンパスだけで人間の情念を謳い上げ
たような永井さんの作品で、その考え方に衝撃を受け、神田の古本屋街まで何度
も足を運んで永井さんの作品が掲載されている本を買いあさっていたりしていま
した。
なぜ、永井さんのデザインが何の色にも染まっていないな私の心を捉えたのか、
それには大きな背景がありました。
.
幼い時から自動車が大好きで、頭の中の半分は「クルマ」という少年時代を過ご
した私が本田宗一郎氏に夢中になったことは以前で書いた通りです。   が、
もう一つ、新進の自動車雑誌「カーグラフィック」誌のピニン・ファリーナとい
うイタリアのデザイナーの特集で目にしたことが大きな刺激になりました。フェ
ラーリなどのデザインの美しさもさることながら、そこに一人のデザイナーの個
性や哲学、生き方が投影されている事実に何より感動したのです。それなのに、
今学んでいるインダストリアルデザインの中身は、所詮サラリーマンとしてのデ
ザイン企業戦士を作り出すようなものであり、そこに大きなギャップを感じてい
た訳です。現実は随分違うと大いに落胆していました。
.
一方、グラフィックデザインの方は亀倉雄策さん、田中一光さん、福田繁雄さん
など、個性的ないわゆるスターデザイナーが揃っていて、いずれもそれぞれの哲
学や思想、ないし技法的な特色をシッカリ持っている。その中でも一番分かりや
すかったのが永井一正さんだった、ということになります。お一人お一人の「そ
れ」を知る度に目から鱗が落ちるような感動を覚え、私はそこからデザインを学
ぶ足がかりを築いて行きました。大学で学ぶ以上に、一時期、私の心は明けても
暮れても永井さんのデザインを理解することに向けられました。その、ご本人か
ら電話を頂戴するとは何という光栄なことでしょう。そのポスターは今でも私の
宝であり、我が家の大切な家宝なのです。
.
そして、その時、自分より若い人には出来るだけ親切に接することの大切さを教
わりました。私の最初のデザインの師、それは永井一正さんだと今でも思ってい
ます。



デヴィット・リーン監督(映画アラビアのロレンス)
.
人生で出会った最高のシーン。映画「アラビアのロレンス」、砂漠の中のはるか彼方に姿
を現したロレンス、それは見えるか見えないか、陽炎なのか、実像なのか、、。
おそらく、この映画を観た人はこのシーンを生涯忘れることは出来ないでしょう。1962年
に公開された、このイギリス映画は本当に奇跡的な作品だったと言えるでしょう。映画と
いうものを黒澤作品で紐解かれた私にとって(日本公開から5年も経っていましたが)本
当に強烈に印象に残った場面でした。荒筋はこうだった。イギリスの軍人だったロレンス
はオスマントルコの支配から独立運動をはじめたアラブ部族と接触するために、単身でア
ラビアに行くことに。延々と続く砂漠の真ん中でアラブ人のガイドに井戸に案内される。
そこで最初の衝撃的シーンが登場する。無断で井戸を使ったとして、ガイドが持ち主に射
殺されるが、その持ち主が砂漠彼方から姿を現す不思議な画面から、いきなり射殺される
厳しい「掟」を示すことによって、この映画のイントロは、その役割を見事に果たしてい
ました。
やがてアラブ人の基地に到着、独立戦争に協力を約束し、トルコの軍隊の拠点となってい
る港町アカバへ向かう。長い長い砂漠の道程、その内に50人ほどの闘士達の内、一人が
はぐれてしまう。
それを大反対を押し切ってロレンスが探しに引き返す。「ヤツはそれが運命だったのだ、
諦めろ」、「死に行くのか!」。照り付ける灼熱の太陽、隊はついに絶望的な雰囲気にな
る。一人の仲間が途中まで出迎えるがロレンスは現れない。
すると、砂漠の陽炎に揺らぐ地平線の向こうにかすかな何かが!それは小さい小さい点と
なり、やがてラクダに乗ったロレンスらしき姿が次第に見えて来る。アラブ人隊全体に歓
喜が広がり、テーマ曲が高らかに鳴り響く、、。映画館内は本当に感動に包まれました。
.
(と、まあ、こんな文章では、とてもあのシーンを伝えていることにはなりませんネ。)
.
あの場面を見て、涙を流さない人はいないでしょう。それもシクシクと泣くというより、
涙が空中を飛び散る!という表現がピッタリだと思います。
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1962年の公開(日本は翌年)、イギリス映画、配給はコロンビア映画。
1914年の第一次世界大戦勃発直後のアラビアの情勢は今日まで基本的に変わらないことを
、明解に表現されていることにも驚きます。
監督のデヴィット・リーンはその5年前にタイを舞台とした「戦場にかける橋」を制作し
ています。その後、撮影は基本的にセット無しで砂漠での撮影を決行するために、3ヶ月
かけて300kmの鉄道のレールを設置、毎日ピストン輸送で撮影を続けたそうです。戦
勝国として経済に余裕があった当時のイギリスでなければ考えられないことだったし、ま
た世界の娯楽の中心的な存在だった「映画」が35mmフィルムから70mmフィルムに
移行する時代だったことなどの背景がこの映画を後押ししたことは間違いないでしょう。
この映画から「歴史」を、そして「歴史」からこの映画を検証して見ると多くのことを知
り、理解出来るようになります。まだ観たことのない若い人は、ぜひ画像にあるDVDを
購入して、大きな液晶TVで観賞して下さい。
.
さて、映画の説明はこれくらいにして、今の若者はあのアラブ人を助けに行くシーンをど
のように見るでしょうか。興味があります。「くさいシーン」、つまり人間の本音とはか
け離れた幻想的な作り事に過ぎない、としてしまうのでしょうか?
この映画を最初に観たのは大学2年生の初夏です。たしかに映画の最後ではボロボロにな
ったロレンスになりますが、例えそうであっても考え、信じたことを実行したロレンスの
姿に心底うたれるものがありました。それを象徴しているのが前述のシーンだと思います。
あのようにカッコ良くなくとも、周囲の動向や意見に流されない(シッカリとした考えに
立った)人生を歩みたいと心に誓ったことを記憶しています。自分の仕事と重なりあう事
が多い部分では大いに学ぶことがあったと同時に、人間形成においても大きな影響を受け
た映画だったと言えるのです。



スタンリー・キューブリック監督(映画2001年宇宙の旅)
.
このシリーズを続けて来て、偶然にも21回目となりましたが、今回は「2001年宇宙の旅」
についてです。この映画を観たのは大学2年生の終りの春休み、1968年3月でした。それま
でも、そして、あれからも数多くの芸術作品に接して来ましたが、この映画で受けた感動以
上のものを味わったことがありません。「2001年宇宙の旅」は私にとって、とてつもなく大
きな存在なのです。
新聞を賑わした話題作ではあったものの、観客数には恵まれず、確か私はロードショーの最
終日に慌てて観に行ったと記憶しています。映画館は東京は銀座の1丁目にあった「テアト
ル東京」でした。
ここで、初めて「シネラマ」という巨大映像方式を体験することになりますが、いよいよ予
告編やCMの映像が映し出されると、そのスクリーンはたしかに大きいものでした。しかし、
それが終わって、いよいよ映画がはじまると幕はさらにスルスルスルと広がり、その見上げ
るような巨大というか、極端に広角なスクリーンになったのです。
それに度肝を抜かれているのも束の間、いきなり、あの地球と、月と太陽が一直線に重なり
あって浮かび上がる映像が登場します。胸の鼓動はドッキドキ、、、。音楽は有名になった
「ツァラトゥストラはかくに語りき」。その興奮を早くも一気に頂点に導かれました。
「これはいったい何なんだ!」。
.
全ての芸術作品において、力作や名作に触れると見終わった後にとてつもない疲労感に襲わ
れるものですが、この映画が終了した時、私は虚脱状態でした。そして、次の日も、そして
その翌日も、一週間、一ヶ月、半年、一年と経過しても寝ても起きても、生活の全てにこの
映画が関っているような時間を過ごしました。
そして、多くの人にこの映画の素晴らしさを説き、多くの人が私の話を聞いて、この映画を
観ました。しかし、そのほとんどがシネラマではない、普通の映画館での観賞です。それで
は魅力が半減してしまっていたことでしょう。今ではそれさえも適わないので、せめて50
インチ以上の液晶TVで観賞されて下さい。
.
この映画の説明はいくらしても野暮になるので止めますが、別の観点から見ると「映画の時
代の最後の映画」だったように思います。この時代を境に、映像文化は映画からTVに移り
、世の中の産業経済も文化も、テレビという媒体が中心になるのです。
.
(えっ?「その後も映画は存続している」?その通り。しかし、内容には随分違います。)
.
製作期間と製作予算はいずれも当初の倍以上の4年と(日本円にして)40億円。1960年代
としても信じられない数字です。映画会社のMGMも悩みに悩んだことでしょう。
しかも、娯楽映画とは言えない内容だったので、観客も延びず、難解なことでアカデミー賞
などの主立った映画祭の受賞もなく、非常に地味な存在でした。(キネマ旬報では年間一位
、中でも淀川長治氏は最高点を投票。)
「2001年宇宙の旅」はこうした映画界の際どい時代を背景とした、滑り込みセーフ!みたい
な企画だったのではないでしょうか。これ以降、アメリカ映画においても娯楽映画の大作は
しばらく姿を消し、1980年代、新しいビジネス・スタイルとして再登場するまで、単純な収
益優先型映画が続くことになるのです。
.
純粋に芸術としての映画、というものと真正面から対峙し、自分の哲学をまともにぶつけた
「2001年宇宙の旅」はイギリスの「アラビアのロレンス」、そして日本の「七人の侍」と共
に映画が純粋であり得た最後の作品だったのかもしれません。今、振り返って見て、私はそ
う思えてならないのです。



エンツォ・マリ(Enzo Mari伊)

「ところで、私は大学を出ていません、。」
数多くの傑作デザインを生み、世界中に大きな影響を与えたイタリアのデザイナー、エンツォ
マリさんが今年も岐阜で講演した第一声です。
世界のプロダクトデザイナーの30%は日本人だと言われています。それだけ我が国のデザイ
ン教育は突出していると言えますが、冒頭のマリ氏の言葉ほど日本人を凹ませるものはないで
しょう。
その後のマリ氏のスピーチはまさに「根源的なデザイン論」に終始します。良識的な日本人は
ここで「ハッ」としてしまう訳です。
力強く、次から次と繰り広げられるデザイン批判。中でも「世界的に突出した文化を持ってい
た日本の文化はいったいどうしてしまったんだ!」と叫ぶような日本批判は私達の日頃の疑念
がストレートに伝わり、誰もが圧倒されます。
(しかしですね、ここでメモとっているような聴き方をしている人、ダメですヨ。それって、
とでは。景勝地に観光に行って、観賞もしないでカメラで写真ばかり撮っている姿と変わらな
いです。言葉をストレートに生で受け止めねば!)
.
日本と日本人のデザイン観は簡単に言えば、あまりにもスレッカラシです。このことに気が付
かない人は不幸です。正確に言えば、間違ってます。バカヤロウです。
「そのデザインは商品としてのリアリティがない」とか、薄っぺらな発言する人、たくさんい
ますよね。毒されてますね、そうした人は。毒饅頭食っちゃてる。可哀想に、、。
.
デザインは私達の生活を豊かにするために存在するのであって、商品を売るためとか、企業が
儲けるために存在する訳ではありません。
例えば人には性(SEX)というものがあり、それは子孫繁栄のツールです。それは「愛」な
くして存在してはなりません。「愛」と「性」がセットして存在することによって人類は発展
は存続出来るのです。その一部分だけを取り出して別の目的に位置付けることは道徳的と言え
ません。援助交際なる売春を親が「いいよ、いいよ」と正当化している姿と全く変わらないの
です。
戦略的なデザイン。なるほどデザインが成功するには戦略も必要でしょう。しかし、「その目
的は?」と問われると「企業戦略に決まってるさ」となります。こんなことが常識化されてい
る、その前提に立ったマリ氏講演のメモ書きは全く意味がない訳です。
.
70才も中盤にあるマリ氏は極めて精力的行動が印象的です。とにかく、我が国の偏屈なデザ
イン観に警鐘を鳴らし続けてくれる存在として、同じ時代生き、同じ席で食事をして話が聞け
たことを至福の想いで捉えています。そして30年間、ファンであり続けられたことに感謝し
たい気持ちです。



清水千之助先生(東京造形大学の恩師)ありがとうございます。
.
東京造形大学の第一期生として入学し、1〜2年は基礎課程を学び、いよいよ専門課程
が多くなる3年生以降は助教授だった清水千之助先生の授業が中心でした。基礎過程で
数理造形などを教わりましたが、専門課程では社会に出て、工業デザイナーとして実践
するにおいての様々な実務を研修することに重きが置かれており、少なくとも楽しい授
業ではありませんでした。また、教え方や課題の出し方も厳しく、あまり笑えないジョ
ークなんかを授業中に飛ばすので、ハッキリ言ってあまり親しみが持てないな先生でし
た。しかし、何と言ってもカリキュラムの中心的な存在だったので、「センチャン」と
ニックネームを付けて、少しでも親しめるように接していましたが、私にとってそれ以
上の存在感はありませんでした。
.
「デザイン」の知識がほとんどなく入学した私にとって、知れば知るほど、どのような
デザイナーになるべきか迷い始め、必ずしもカーデザイナーの道、一本に絞って邁進す
るような気持ちは薄らいでいました。しかし、それでも初心貫徹とホンダの就職試験を
受けましたが不合格、次いで大手家電メーカーも不合格となり、迷いの中に別の不安感
が芽生え、そうする内に自信まで喪失しかねない心境になり、ようやく就職が決まった
某有名設備設計事務所も配属された部署の上司と折り合いが悪く、何と卒業式前に辞め
てしまい、親からは叱られるし、クラスメイトからは馬鹿にされるし、四面楚歌という
か、太平洋にカナヅチの心境での大学卒業でした。
.
このどん底状態から、どのように態勢を建て直すのか、私の青春時代の課題は再び原点
に戻り、それを打開することのみに集中した日々でした。そして、フェラーリのような
美しい自動車をデザインすることからは最も遠くに位置してしまったことを認め、であ
れば、それに匹敵するデザインがどうすれば可能なのかを考えることが私の日課となっ
て行きました。
そのためには、まず、その「世界」を発見しなければなりませんが、私にとって、それ
は同じイタリアのインテリア雑誌「ABITARE」でした。特に一年に一度の「製品
特集」に収録されている家具や日用品の美しさの見つけ出した時は「これだ!」と思い
ました。そこにはフェラーリに勝るとも劣らないデザインの数々が広がっていて、よく
調べて見ると、それらのメーカーはどれも大企業ではなく、中小企業が大半であること
が分かりました。ここでも私は「そうだ!」と感銘しました。日本ではまだ、この部分
が未開拓だったのです。華やかな大手企業における活動ばかりに目が行って、このこと
を見失っていたことにようやく気付いたのです。暗闇から一筋の光明を見る思いでした。
.
こうして、私の中小企業を介したデザイン活動の幕が切って落とされましたが、それを
実践するにあたって、自然に清水先生の授業で教わった内容の復習や、「工業デザイン
の実務」といった著書を紐解く頻度が高くなり、カリキュラムにおける先生の意図が、
ようやく理解出来るようになりました。特に企業との関係において、単品のデザインや
短期間の商品開発では根本的なデザイン開発は不可能であり、長期間、企業とどのよう
な関係を構築すれば良いかを理解する上で清水先生の考え方は大きな参考となりました。
外部デザイナーとして、同じ企業と5年以上商品開発を継続することは難しいとされて
います。それを10年、15年と続けられ、20年近く継続した企業が大半だったこと
は、偏に清水先生の考え方を実践したお蔭だと思っています。
.
残念ながら、先生は50才台半ばにして逝去され、私のささやかな実積をご報告する機会
はありませんでした。しかし、私の活動は新聞記事やデザイン誌を通して一部、その過
程を知っていだいたようで、ある同窓の会合で真っ先に私の所に歩み寄って来られたこ
とがあり、卒業時の顛末に対し、少しはご恩に報いているように感じられたことを嬉し
く思い出されるのです。

2004年6月13日 岐阜県多治見市のホテル・ロビーにて 森正洋さん 感謝します。 カーデザイナー志望だったので、陶磁器のデザインにはさほど関心がなかった。陶磁器 というより日用品デザインの延長戦上にある焼き物はあまりにも種類が多く、価値観も 藝術作品から工芸品から雑貨のようなものまで幅広い。この中から「森正洋」とか「 白山陶器」の名前まで到達するのに相当な時間を要した。そして、考えれば考えるほど 、真綿で首を絞められるように無視出来ない存在として頭の中に入って来る。森正洋さ んは、そのような人だと思う。 まず、ご本人が正確な記述を残していないので、推察でしかないが1956年、アメリカで の連続講演を終えたフィンランドのデザイナー、カイ・フランクが突如、私的旅行とし て来日、その輝きからたちまち情報は広がり、急遽、開催された講演会に森正洋さんは 九州から駆け付けている。そして、今度は公式に招いたカイ・フランク氏のワークショ ップに参加して、何と、その時にG型醤油差しのプロトタイプを披露しているのだ。こ の無地で真っ白に焼き物は、当時の常識を覆した反逆児だったが、東京は銀座の松屋デ パートで展開されていたグッドデザイン・コーナーで歓迎され、メーカーの白山陶器は この売り場のために商品化を決断している。松屋(日本デザインコミッティー)側も、 開店休業状態だったので、相思相愛の関係となった歴史的な出来事に発展した訳である。 しかも、あの形は一発であみ出され、石膏型を使った鋳込み成形のお手本でもあり、一 度の改良も施されていないという驚嘆する事実もある。本当にビックリだ。この続きは 、半世紀近くも経った今世紀に無印良品の要請でMUJI向け醤油差しをデザインして いるが、実に達観した形である。再び、素材や機能を知り尽くした傑作となっている。 一人のデザイナーとメーカーが切っても切れない関係で、互いを必要とした関係を長年 継続出来たことは他に事例がないと思う。時代の要請に応え、逆に新しい時代を切り開 く。森正洋さんと白山陶器の商品開発はそれを実践し、市場に応え新しい市場を作った 軌跡だと思う。会社が大きいとか小さいとは関係ない。そんなことを問う気持ちにさせ ない魅力に溢れている。 森山和彦さん(元ジャパンインテリア誌編集長)ありがとうございます。 . 「JAPAN INTERIOR DESIGN」とインターネットで検索してみる。、、、。ゼロ。 1985年に休刊となった通称「ジャパンインテリア」は60年代の後半から80年代にか けて、良識派のデザイナーに絶大な支持を得たインテリア専門誌だった。しかし、イン テリア専門誌というイメージとは大きくかけ離れた内容で、時に建築紹介あり、テーブ ルウエアの特集あり、domusを中心とした情報の海外編あり、家具、プロダクトも あって、写真を中心とした記事は簡潔で美しい内容でした。辛口という訳ではありませ んが、鋭い本でした。編集長は森山和彦さんでした。 デザイン誌は売るのが難しいようで、美術出版社の「デザイン」、大御所の勝見勝編集 の「グラフィックデザイン」、産工試の「工芸ニュース」は70年代に姿を消していま す。最近では日本産業デザイン振興会の「DesignNews」(山田裕一編集長) が意外にも休刊となっています。私も休刊となった「icon」とか「FP」に寄稿し たことがあり、格別な思い出があります。 これらの中で最も印象深く、大きな功績を残したものを選ぶとすると「グラフィックデ ザイン」と「ジャパンインテリアデザイン」になるのではないかと思います。 前者の編集長だった勝見勝さんは、母校である東京造形大学の初代学科長で、毎日毎日 休講ばかりでしたが、卒業してから、その偉大さに気付きました。イタリアの建築誌d omusのようなプロパガンダ的な高揚を編集に持ち込んだ(東京オリンピックなど) 事例としては例を見ないデザイン誌として歴史に残ることになるでしょう。 これに比べると「ジャパンインテリア」本当に気負いを感じさせない「森山眼力」を、 筋を通して続けた安心感が「売り」だったように思います。世界中のデザイン情報を森 山フィルターによって洗練された情報として接することが出来た私達は幸運だったので す。休刊は残念なニュースでしたが、良く続いたものだという感想もあります。 中心的に紹介されたデザイナーや建築家は倉俣史朗さんを先頭に、E・ソットサス、A ・メンディーニ、葉祥栄、黒川雅之、梅田正徳、磯崎新、粟辻博等、本当に時代を先取 りした素晴らしい方達ばかりでした。中でも「クラマタ専門誌」などという陰口があっ たほど、倉俣作品の紹介頻度は高かった訳です。一定の作風ではなく、いつも新しい手 法や素材、考え方を追及している姿勢には驚かされました。「本で紹介されたショップ は半年後にはつぶれている」ことが多発したことも事実ですが、双方とも純粋さが際立 っていたことは間違いありません。 いつの日にか、こうした人達に混じって、少しでも自分の作品がジャパンインテリアに 掲載されることが夢となりました。78年だったと記憶しますが、時計とかテープカッ ターが見開き2ページで紹介され、これ以上青臭い文章はないというほど恥ずかしい原 稿を書いてしまいましたが、とても大きな自信になりました。その後、紹介された回数 は4〜5回に過ぎなかったと思いますが、特に80年代前半はデザイン誌としては孤高 の存在だっただけに、記事の内容は大変に貴重でした。 あれだけの功績がありながら、現代においては忘れられ、陰ながら多くの優れたデザイ ナーを育成したのに、インターネットに「ジャパンインテリアデザイン」の文字を見つ けることは困難です。しかし、今、ベテランとして活躍している「意」ある多くのデザ イナー諸氏は間違いなく、ジャパンインテリアの見識が心に刻まれているはずです。こ の事を突き詰めて考えて見ると、これは編集人の森山和彦さん個人の哲学の功績だと思 います。しかも、長期間に渡って良質なデザイン情報を提供し続けた事実は、今後同じ 事例はあり得ないだろうと思うほど奇跡的ですらあります。ネット検索ではゼロでも、 志しのあるデザイナーの心の検索には大きなヒットになっているのです。
山口尚忠さん、中川斉にさん 本当にお世話になりました。 山口尚忠(1935-2017)さん、中川斉二(1936-2018)さん、お二人とも82才で他界され ました。お二人は大の仲良しでした。 山口さんは若い時から家具業界紙や業界誌に携わり、その後、東京は新宿のリビングデ ザインセンターで工房家具を運営されました。約半世紀、デザイナーより業界サイドの 情報に精通した数少ないエキスバートでした。人格者であり、柔軟に物事を捉える仕事 ふりは多くの人の信頼を集めた存在でした。 残念で、残念でならないのは、氏のこれまでの実績、経験、情報が逝去されたと同時に 無に帰してしまったことです。今迄、数多くのインタビューをして来た「お宝」のよう な、「人間国宝」のような重臣に誰も歴史を問わず、家具業界の知恵を引き出そうとす るジャーナリスト、編集関係者が出現しないまま亡くなったのです。何ということでし ょう!ご本人に申し訳なく、また、後世に対して情報を断ち切ってしまった無念さで胸 が一杯になります。 中川さんは木工クラフト・家具デザイナーとして活躍され、私達の世代から見ると、一 つのお手本のような存在でした。活動としてもクラフトデザイン協会が取り仕切る松屋 銀座デパートのクラフトギャラリーの運営責任者として、また、1978年に開催され た世界クラフト会議のパネリストとして、クラフト作家が苦手とする役職もこなされて います。何より、常に新しい風を取り入れようとする姿勢は数多くの新人を発掘しまし た。本当に懐が広い視野と運営だったことは、クラフト業界以外からも、ここからデビ ューしたクリエイターがたくさん出現したことからも証明出来ると思います。 活動拠点を神奈川の小田原から茨城の笠間に移し、クラフトから家具デザインに軸足を 移されましたが、多くのデザイナー達が氏の功績を引き継ぎ、感謝しながら前進してい ることは間違いないと思います。本当にありがとうございました。 ※写真は手前の島添昭義さんの個展にて。山口さん(右)と中川さん(中央)1998年 山田裕一さん(元デザインニュース編集長)ありがとうございます。 . Gマーク制度というものがある。これは70年代の前半、通産省の外郭団体として日本 産業デザイン振興会という組織を作り、後に独立して財団法人日本産業デザイン振興会 となった機関の最重要事業である。 団体のトップは天下りだか何だか分からないがコロコロ変わるけど、中核にいるのはA TY(青木、田中、山田各氏)トリオ(言い方が悪くて失礼します)で、Gマーク担当、 事業総合、それに機関誌的存在のデザインニュース編集、という具合に役割を分担して いました。山田さんはもちろんデザインニュース編集担当でしたが、この構図で約30 年間変わらず運営して来た訳ですから驚くべきことです。さらに、国家が「良いデザイ ンを認定すること」に対する意義申し立ても多かった中、ここまで権威化を高めたのは、 先の3人組のコンビネーションがあったからこそ、と思うのです。 また、3人のキャラクターも絶妙に異なっていて、戦略的な青木さん、安定的な田中さ ん、そして学究的な山田さん、といった具合です。それぞれの個性がそれぞれの持ち場 と合致しなければ、ここまで続かなかったし、また高まることもなかったでしょう。ま さに歴史に残るトリオです。 で、山田裕一さんですが、たしか最初にお会いしたのは私のデザインした温湿度計をメ ーカーが相談もなくGマークを申請して、合格したのは良いのですが、私の名前と所属 事務所の書き方がいい加減だったため、浜松町の通称「産デ振」を訪ねた際だっと記憶 しています。この時「Gマークはつまらない」とかイチャモンを付けて、デザインって、 もっともっと違った視点が欲しい、という意見を述べたことがきっかけに、山田さんの 「それって何ですか」ということからお互いを知ることになった訳です。「違った考え 方を吸収したい」、「異なるデザイン哲学を紹介したい」。そういう貪欲さ、柔軟さが とても意外で、その時から私は山田裕一さんを注目するようになりました。そして、い つも内緒で送ってくれたデザインニュースで、私は大変多くのことを学びました。貧乏 デザイナーだった私を応援しようという、山田さんのあの時の心意気に少しでも報いた い何時も思っています、この歳をして、、。 一方「もう一つのインダストリアルデザイン」を寄稿させてもらったり、インダストリ アルデザイナー(特にJIDA)一辺倒の人脈に黒川雅之さんや、ルイジ・コラーニの 紹介など、違った側面からの価値観をチョットだけ支援出来たのではないかと思ってい ますが、ご本人は忘れているかもしれません。 . 山田さんは、こうした青年らしさを何時までも失わない希有な人です。そして、ジャー ナリズムに携わる人にまま見受ける、権力をちらつかせるような素振りを微塵も見せた ことのない純粋さ、謙虚さを堅持し続けた点においても気高さを感じさせる人でした。 しかも、彼はなかなかのインテリで博識であったにも関らず、決してそれをひけらかす ことはなかったです。こんな風に書くと亡くなった人を追悼するような文章になってし まいますが、実は残念ながら、2005年3月にデザインニュースが休刊になってから 一度も連絡が取れていないのです。 今、山田さんはデザインを学ぼうとする若者の教育者として最も相応しい人材だと言え るでしょう。デザインを否定的にも肯定的にも捉えることの出来る数少ない識者です。 しかも、ただの机上でガリ勉的に捉えた人ではなく、30年という年月をかけてジック リと醸成した上等なウイスキーのような品格付きです。世間に「目」があれば、山田さ んの将来の展望はデザインの明るい展望と直結するはずです。それが、具体的にどのよ うな受け皿の上に披露されるのか、多くの関係者が見守っていることと思います。 2006/2/1 林 英次さん ありがとうございます。 . 川崎和男さんとアップルコンピュータのMACを使ったスケッチ展を開催した東京は六 本木のAXISギャラリーの打合せのために訪れて林英次さんという人物を知りました。 エレベータでギャラリーのある4Fに到着、ドアが開くと、何とその前で待っていたの が林英次さん(当時アクシス専務取締役)だったのです。最高の礼儀をもって客人を向 かえる姿勢、まず、最初から度肝を抜かれのです。 そこから私はもう緊張のしまくりで、ミーティング中に見せる非常に聡明で、懐の広い 印象は、逆に私にとっては「取りつく島」がなく、喋るのは川崎さんばかり、ほとんど 何も話が出来ず、その場を離れました。 . AXISビルがある場所はもともとブリヂストンの自転車の展示場があった場所で、時 代に即した活性化として浜野安宏さんがプロデューサーとして「デザイン」をテーマと した日本初のテナントビルとして誕生しました。1981年のことです。 林英次さんはたしか2年後、本社からAXISの番頭さんとして派遣された最高級の人 材だった訳ですが、そもそもAXISが出来た意義には大変大きなものがありました。 それまで「デザイン」の発表の場というと銀座の松屋デパート(デザインギャラリー) だけで、面積も10坪ほどと狭い上に、取り仕切っているのが日本デザインコミッティ ーであるため、任意に発表出来る場所はなかったことになります。 そこに(AXIS社内の審査はありますが)任意に発表出来て、しかも会場スペースが 6倍ほどの60坪というのはデザイナーにとっては爆発的な朗報だった訳です。私もそ の後AXIS、アクシスと、発表活動が続くことになりますが、その誘因の中に林英次 さんの存在がとても大きかったことをお話しておきたいと思います。 . そんなことで林さんのことを「雲の上の人」と思って戦々恐々としていた訳ですが、8 6年、青森県弘前市の〔游工房)津軽塗の発表会のための打合せがあり、その時、代表 者の都合が悪く、代りに若い漆職人さんが来ました。ここに林さんが来たら「大変なこ とになる」と心配していたら、(運悪く?)案の定、林さんが一人担当として出て来ら れました。「ああ、もう絶望的」な雰囲気、、、と思ったら、何と林さんは優しく優し く、まるで自分の息子に接するように耳を傾け、話し掛けている姿に逆に腰が抜ける思 いでした。この時から、私はすっかり林英次さんを信頼し、また師と仰ぐ人となりまし た。 . もちろん優しかっただけではありません。漆には漆の、鋳物には鋳物の、インダストリ アルデザインにはインダストリアルデザインの、それぞれの世界で瞬間湯沸かし器のよ うに述べる見識は一つひとつが大変シャープで、問題点を深く洞察出来ているものでし た。それを毎回の様々な展示会でその都度拝聴出来るため、私にとっては大学卒業以来 の「先生」のような存在となりました。人からよく「三原さん、なぜAXISばかりで 発表会やるの?」と質問されましたが、会場の問題もさることながら、こうした林さん にまつわる背景があったのです。 . AXISでは本当に感心させられることばかりでした。勿論ベースには基本をつくった プロデューサーの浜野さんの功績があると思いますが、「デザインの美」を実際の仕事 場で実践し続けることは並大抵なことではありません。中でも幾つかある会議室の美し さは溜め息が出るほど素晴らしいものでした。それは異様なほど整理整頓されたAXI S内のオフィス空間と一体となったものであり、厳格な林さんの指導あってのものと、 ずうっと敬服していました。これだけは私にはどうしても真似出来ていません。 . (また、後になってですが日本の伝統工芸の指導で有名な故秋岡芳夫さんがKAKとい うデザイン事務所を運営していた際のクライアンツでオートバイのライラック社があり 、そこに20才半ばにして同社の「企画開発を取り仕切っていた林英次という人物がい た」と何かの文献で記されていました。最初からスゴイ人はスゴイですね。その後、ラ イラック倒産→ブリヂストンにスカウト、という経緯のようです。) . こうして1980年代、意外にも低迷していた日本のデザイン界の活性化にAXISは 大きな貢献を果たし、画一的だったこの世界に一石を投じる結果となりました。その最 大の功労者であり、活きたデザイン実践者、指導者だった林英次さんを私は一生忘れる ことはないと思います。ただ、問題は一つ残されています。それはAXISも林英次さ んも、その実積を「賞」として賛えられていないのです。これらは、権威ある「賞」が チャラチャラしたもの珍しい新人デザイナーの「奨励賞」化してしまっていることを浮 き彫りにしている、そう私は理解しているのですが、、。 山本卓弥先生 高校時代の恩師 私は団塊の世代の先頭だったので、色々な余波を受けた。教室は小学校入学時から所謂 寿司詰め教室で、一クラス60人を超えていた。一番混乱したのは高校受験で、公立高 の難易度が上がっただけでなく、それまでのデータが役に立たず、チグハグな結果をも たらした。私も二つの公立高を不合格となってしまい、家の近くにあった創立2年目の 大東文化大学の付属校、大東文化大学第一高等学校に入学した。 入学生は受験に失敗した子もいれば、他に入学出来そうにない不良もいて、今迄と違っ て友達も出来ず暗い高校生活をおくった。 そんなことなので、身体を壊して一週間ほど休んだことがあった時、とても優しく、休 んだ期間の補習授業を施してくれた先生、それが山本先生だった。 山本先生は英語の担当教員として赴任してきたばかりの時で、とても屈託がなく明るさ が印象的だった。私は卒業しても毎年、年賀状を出していたが、あれから36年、とん でもない事が起こった。 それは2001年、福島県立美樹館で、地元出身者による「福島の新世代2001」に 招待され参加した時のことだった。 ちょうどその時、私は住んでいた町の町内会役員をしていて、美術館のオープニング日 と町内会開催日が重なっていた。当事、重要案件があり、私は仕方なく美術館のセレモ ニーを欠席したのだった。 1週間後、下の息子と美術館を訪れ、学芸員の方から想像もしなかったことを告げられ た。初日「○○さんと、○○さんが名刺を置いていかれました」!!! 何と!その内のお一人が山本先生だったのだ。 ご報告のつもりで案内状を出させていただいた。まさか、初日に埼玉県から足を運んで いただけるとは夢にむも思わなかった。本当に穴があったら入りたい心境だった。 私は高校時代、目立ったこともしないし、成績もパッとしない地味な生徒で、先生から 注目されるような存在とは程遠かっただけに感謝の気持ちで一杯になった。 今後においても、少しでも先生に良いご報告が出来るよう精進、実行したい。そして、 先生には遠く及ばなくても、少しでも人格面で近付けるよう努力したいと思わせる、そ んな大切な大切な恩師、それが山本卓弥先生である。 山本先生、本当にありがとうございます。 尾関秀太郎さん1922-2017 元株式会社オゼキ 会長 感服しました。 オゼキ社は、いわずと知れたイサム・ノグチのAKARIシリーズを製造販売する岐阜 県の提灯メーカーである。 私は大学2年生の時、爆発的なヒット商品となっていたZライトを買うために初めて東 京・秋葉原の電気街を訪れた。 最初に目にとまったのはヤマギワのお店で4〜5階建てのビル全部が照明器具を扱って いた。 1階から2階に上がって驚いた。眩いばかりの真っ白な提灯が並んでいて、それがAK ARIだったのだ。 私はすっかりZライトの事を忘れてしまい、AKARIに魅了され立ちすくんでいた。 心変わりして、60cmくらいのペンダントを買うことにした。 店員に告げると、しばらくして大きな封筒のような商品を持って来た。あの大きな提灯 が?!2度目の衝撃だった。 ウキウキしながら電車に乗って、不安がよぎった。 私の父はとても気難しく、こんなものを買って帰って叱られないか、、、、。 結果は父もとても気に入ってくれてホッとした。 中にはピアノ線のような針金が入っていて、それで提灯を広げて突っ張り、ソケットに 固定するシンプルなものだった。 古臭い提灯がこんなにモダンに激変するとは驚きだった。 それから10年が経過して、私はヤマギワの仕事をする幸運に恵まれ、AKARIシリ ーズを深く知ることとなり、実は作る事がとても難しいことを理解するようになった。 コンピュータも無い時代に、AKARIシリーズを完成に導いたオゼキ社の辛抱強さに 心がひきつかれ、当時社長だった尾関秀太郎さんに是非お会いしたいと思うようになっ たが、機会がないまま時間ばかりが過ぎていった。 それから25年も経って、岐阜県知事だった梶原拓さんが提唱したオリベ・プロジェク トにオゼキ社が第一号で参加されることを知り、私は二つ返事でこの仕事を受諾した。 講座には(当時)会長自らが受講いただき、その人の話の聞き方から立ち振るまい、礼 儀まで、こちらが恥ずかしくなるほどの人格にすっかり敬服した。 どちらが受講者か分からない。私は隙を見てねほりはほりと今迄のことを伺った。 1955年ごろから65年までは全く売れず、邪道だの半製品と陰口をたたかれたそう で、しかし、イサム氏自身が個展などで販売すると、その反響で日本でも注目されるよ うになったらしい。製作が難しく、売れないものをよくぞ辛抱したものだと、改めて、 尾関会長に敬意を表したくなった。本当にかけがえのないものを教わった気がする。 本当にありがとうございました。日本一の経営者だと確信している次第です。

岡倉天心・柳 宗悦・三原昌平


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